飛生アートコミュニティーとは
1986年創設。飛生小学校の閉校にともない、学校跡を共同アトリエとして使用し創作活動を続けるアーティストの団体です。
これまでに、國松明日香(彫刻家)、勝見渥(画家)、伴節夫(造形作家)、伴百合野(日本画家)、大野重夫(版画家)、田中照比古(画家)、新井睦昭(家具作家)、濱本洋(音楽家)、細井護(彫刻家)らが活動を続けてきました。
2002年以降は、国松希根太(彫刻家)、伴翼(彫刻家)、田中伊久里(漆芸家)、奥山三彩(彫刻家)ら、第二世代のアーティストが移り住み、創作活動を行い、意欲的な作品発表を続けています。
現在は、制作の拠点のみならず、交流の場としても活用され、道内外から多くのアーティストが訪れます。
近年の活動として、
2007年の「
TOBIU meets OKI」や
2009年の「
飛生芸術祭」、
MAGICAL CAMP 2009でのプロジェクト「
マジカル郵便局」などを企画しています。
飛生地区・飛生小学校の歴史
●地名の由来…アイヌ語で「ネマガリダケ(トップ)の多い(ウシ)所(イ)」とされているが、『北海道蝦夷語地名解』には「Tupiu 鳥の名、黒き鳥なり此鳥多きにより名く。」と記されており、二つの解釈がある。
1891(明治24)年:最初の移住者が入植し、造材業や製炭業、牧場などを営む。
1914(大正3)年:飛生の奥地に鉱山が発見される。(敷生鉱山)
1918(大正7)年:第一次世界大戦により敷生鉱山が盛況となり、トロッコ貨車(動力は機関車ではなく農耕馬)の軌道が敷かれる。
1920(大正9)年:鉄価格が下落し敷生鉱山が休山、軌道は廃止される。
1945(昭和20)年:戦後の食糧危機を打開するため、政府が「緊急開拓事業実施要領」を策定。
1947(昭和22)年:東京都開拓団と日鋼開拓団の約30 戸が飛生へ入植。
1949(昭和24)年:飛生小学校創立、14 人が入学。
1960(昭和35)年:児童数が最多の34 人となる。
1983(昭和58)年:北海道より「愛鳥モデル校」の指定を受ける。
1986(昭和61)年:児童数の減少により飛生小学校が閉校、最後の卒業生4 人が巣立つ(児童数は9 人)。「飛生アートコミュニティー」が創設される。
写真:4枚目…敷生鉱山が活況の頃の軌道終点(旧飛生小学校の裏手)、5枚目…飛生小学校開校式の記念写真、6枚目…飛生小学校閉校式の記念写真
(共に『新白老町史下巻』より)